2001.12・10
 荘内日報社に“我が母校”鶴岡南の記事を掲載した事はないかとFAXした。


2001.12.14
 当社ではないが、山形新聞に掲載されていた様に思うとのFAXが入った。山形新聞には、関西鶴翔同窓会の前事務局長工藤完氏がおられる事を思い出し、TELしたところ、酒田支局に勤務しておられた。すぐにFAXした。念のため新聞の切抜きの裏面から年月日を特定できる記事が一部有ったのでそれもFAXした。それは、今年最後を飾る74ダンロップ.フェニックストーナメントは5日から行われるとの記事であった。


2001.12.20

 工藤氏より返事があり、74ダンロップ.フェニックストーナメントは、昭和49年10月5日より開催されておりました。その前後の記事をマイクロフィルムですべて探して見ましたが、掲載されておりません。本社の指摘では、この時期に毎日新聞山形版に有ったようだ、との事でした。


2001.12.21
 毎日新聞山形支局長へFAX。


2001.12.25
 毎日新聞山形支局長へTELした所、当社山形版で昭和49年1月12日から昭和50年1月18日迄30回にわたって掲載された。詳しい事は毎日新聞社情報サービスセンターと打ち合わせて下さいとの事でした。


2001.12.26 
 毎日新聞社情報サービスセンターへFAX。


2001.12.27 
 毎日新聞社情報サービスセンターよりFAXが来た。


   その内容は下記の通り。


      コピー料金             400円×30枚=12,000円
    
記事仕様ホームページ半年掲載で10,000円×30枚=300,000円
      本にする場合は        1枚 5,000円 (消費税は別途)


2001.12.28 
 事務局と相談して、我がホームページに掲載するには余りにも高額であるという事で、毎日新聞情報サービスセンターに断りの電話を入れた。関西鶴翔同窓会の様な、利益を目的としないホームページで有るのにこの様な、高額な金額を請求されるとは思っても見なかった事でした。


先輩、後輩諸氏のどなたか「著作権法」に精通しておられて、何か良い方法が有りましたならご連絡をお願い致したいと思います。

                       

嗚呼!著作権無情

成澤 欣哉  昭和31年卒 

1975.1.31 鶴岡在住の中姉が、「南高の事が新聞に載っていたよ」と言って、切抜きを送ってくれた。
 15枚有り(後でわかった事ですが全部で30枚ある内の15枚でした)読んでみると時代背景、先輩諸氏の情熱や若々しい生き方がわかり感動した。
17回卒 (明治42年)  1クラス全員が集団カンニングしたのを先生に見つかり全員が落第した。
21・22回卒(大正2・3年卒)
修学旅行で仙台、松島を訪ね、途中仙台1中と蹴球試合をした。 仙台1中は揃いのユニホーム姿。
荘内中はネルのシャツにズボンを捲り上げ、裸足で田舎者丸出しだったが圧勝した。

25回卒(大正6年)
教室の寒暖計が零度になると授業が中止になる事から、寒暖計を雪の中に入れ、水銀柱を零度以下に下げて全員早退したが後でバレ、先生に大目玉を食った。

28回卒(大正9年)
大正9年4月酒田中学が開校。荘内唯一の存在を誇った荘内中学は「県立鶴岡中学校と改称された。始業式の後、伝統の荘内中学に誇りを持って学んできたのに、酒田中ができたからと言って校名を変えたのは納得できないと授業を放棄したがどうにも成らず荘内中の卒業証書を逃した連中は落胆した。

32回卒(大正13年)
8月3日隣の鶴工グランドから「鳳嶺月峰雲に入り〜〜」の校歌の大合唱が聞こえてきた。鶴中野球部が県内の中学野球大会で初優勝した瞬間だった。

鶴中の優勝で町の野球熱は高まったが荘内勢は“出ると負け”が続いた。
実業家で市会議長の故平田吉郎氏は士気を高め「甲子園へ・・・・」と当時の金100円で純銀のカップを作り「平田杯争奪戦」を始めた。以後鶴中、南校を通じて10勝しているが甲子園にはいまだ出場していない。

52回卒(昭和20年)
3月に4、5年生の合同の卒業式が行われた。早く戦力として役立てたいとの狙いだったらしい。

戦争突入の年の入学で、まともに勉強したのは1年の時だけ。勤労奉仕や学徒動員の連続でそれに繰り上げ卒業のオマケつきだった。

53回卒(昭和21年)
学園の森に自由がよみがえり賑わい始めた頃、最上級生230人が「勤労動員中痛めつけられた教師の責任追及だ」と授業を放棄して鶴岡公園に集結した。当時、生徒に働かせて酒を飲んでいた先生もいたと言う。ヤリ玉にあがったのが5人で次々に呼び出しつるし上げ、職員室の教師はいつ呼び出されるか震えていたと言う。ストは4,5日続き、男女交際、映画館や喫茶店への出入りの自由の条件を学校が飲み、一件落着したが“人権裁判事件”と語り継がれている。

以上、数件ダイジェストにしてみたが、原文そのまま読んで貰いたいと新聞社に掲載の許可を求め、交渉したのが以下の通りです。何分20数年前のことでもありドタバタした。