【大久保彦左衛門忠教の「三河物語」】

 家康公の嫡子・信康の正妻・五徳は父の信長公に信康の悪逆を12か条にしたため、忠次公に持参させたという。信長公は忠次公にこれを質す。
忠次公は
10ヶ条まで一切否定や弁明をせず、むしろ聞き及んでおりますと肯定したので、信長公は信康を切腹させるように家康公に命じた。
家康公は忠次公が弁護しないのを恨みつつ、自刃させた。

 忠次公が肯定したということは、信康と築山殿の反逆の意図を知っていた事になる。ならば、何故なんの措置もしないで放置していたのか。
信長公の要求に家康公は仰天したと言われているが、忠次公が知っていて家康公が知らなかったとは不可解な話である。
 家康公は信長公と盟約を結んではいるが、家臣ではない。信康の武勇を愛していたというなら,自ら弁明をしたり、信康を隠居させるとか仏門に入れるという手もある。
家康公は一切そのような動きはしていない。

 「三河物語」では、忠次公一人を悪人に仕立てているなど作為も多く、感情的な文章となっている。


【歴史家桑田忠親氏の「酒井忠次公伝」】

 この本では、信長公の娘は家康公の別妻という事になっており、彼女から信長公に送られた『信康の罪状12か條』の訴えが事件の源。
築山殿は、家康公が今川家に人質となっておった時代に娶った正妻であり、信康の生母である。家康公は
,築山殿が駿河に人質として行っている間に多くの側室を持った。信長公の娘もその一人である。人質から開放されて戻ってからも、築山という所に置かれ疎んぜられていた。それで家康公を恨み、信康も父を快よからず思い二人の行状は乱れ勝ちであった。
それに武田氏との内通ありなど色々の噂も伝えられた。家康公も忠次公も度々両人を諌めたが効果無く、また当時は信長公と武田勝頼は対立していたので、遂に訴えられたのである。
家康公が信長公の要求をのまざるを得なかったのは、この時期二人は同盟を結んでいたが,それを一方的に破り、信長公に挑戦するだけの力はなかった。

 天正18年の小田原の陣の直後。伊豆一国を忠次公に与える約束をしたと、秀吉公は家康公に伝えた。家康公は、これを忠次公の嫡子・三河吉田の城主・家次に譲る積もりであった。
間ない頃小田原で家次に普請を言い付たが、その工事に不満があって家康公が小言を言ったという。
それに対する家次の返答がかなり過激であったため、家康公立腹する所となり、伊豆加増のことも沙汰やみとなった。
この後に、三万石の禄高で下総碓井へ転封となった。このとき忠次公は、富田左近将監知信を介して家康公に『井伊兵部・本多中書・榊原式部などさえ十万石を下される事なれば
,家次には伊豆一国を下されると思いしに,わずか三万石。情けなし』と愁訴に及んだという。
家康公これを聞き『子は誰も不憫なる者にあるぞ。堪忍仕るべきの由伝えよ』と答えたという。知信この事を忠次公に伝えると、忠次公は今更ながら信康の最後を思い出し『面目無き次第』といった。  

 家康公は往年、信長公との政略的関係から忍びざる骨肉の情を殺し、嫡男・信康を犠牲にした。その際の工作すべては重臣・忠次公によってなされたものであり、この際汝もまたよく忍ぶべしと命じたのであると、察した。

【歴史家・根岸茂夫氏の説】

 この事件については「松平紀」等いくつかの史料はあるが,この間の事情を詳細かつ正確に物語る史料は無い。ただ諸書に一致しているのは、信康と五徳の不和と五徳からの書状である。
家康公の武将の一人の松平家忠は
,戦国武将として日記を付けていた教養人として著名。天正765日の日記には,家康公が信康と五徳の不和の調停に浜松から岡崎におもむいたと記されている。二人の不和は徳川家中で知られていたことを示している。(先に記した自刃までの経過は家忠の日記による)

 信康事件の真相は不明ではあるが,まず神君神話から(天下を取った家康公の過去の傷は、できるだけ覆い隠す)この事件を開放する必要があり、その原因は徳川氏内部の矛盾に根ざしていると見ることが出来る。家康公と信康の勢力争い。

【作家・安西篤子の説】

 築山殿は今川義元の姪にあたり、信康の体内には今川氏の血も流れている。信康は母と共に岡崎城で暮らし、朝夕に母の苦悩を見聞きしてきた。父を愛すると共に母に同情せずには居られなかった。
そこへ織田信長の娘・五徳が輿入れしてきた。夫婦仲は睦まじく見え、二人の娘も誕生した。

築山殿には、仇敵信長の娘・五徳は気に入らぬ。嫁と姑の対立は信康をも巻き込み、厳しい空気が流れる。
織田家の権勢を背負う五徳に対し実家の今川氏が滅亡した築山殿が、織田の敵・武田氏と手を結ぼうと思いついても不思議は無い。母から掻き口説かれれば
,信康にそうした考えが生まれたかもしれない。
信康はすでに21歳(家康公
38歳)で若者らしい野心も芽生えよう。
岡崎には信康のために命を捨てても戦おうと誓う家来も少なくなかった。こうして一つの不穏な企てが生まれた。
またこれより
4年前に家康公の譜代の臣・大賀弥四郎が,武田勝頼に内通し,岡崎城へ武田勢を引き入れようとしたのが発覚して、妻子ともども惨刑に処された。この計画に築山殿と信康がまったく無関係であったか、どうかは疑わしい。
信康も既に
17歳、大将として推し立てるには不足のない年である。「三河後風土記」に『大賀弥四郎の讒言で父子の仲がよくなかった』と後に家康公が悔いておられたとも出ているのも意味ありげである。築山殿の膝下に育ち、その悲境を眼のあたりにしては、信康もいくらか父を疎ましくなる。体内に流れる名門今川氏の血を自覚すれば、信長に屈する気にはなれない。むしろ武田勝頼に近づき,共に信長と戦う日を夢見さえする。
無論そのときは父に代わって信康が三河衆の支配者となる。築山殿は喜んで息子の後押しをし、奥に出入りの医師などを使って、甲斐と連絡をとる。信康に充分密謀はありえた。

 これにいち早く気づいたのは,信長公ではなく家康公と側近の忠次公等であった。忠次公が7月に信長公に会ったのも、信康の叛意を告げ、娘婿である信康の処分について、信長公の了解を得る。
舅の信長公に断りなしに、信康を殺してしまうわけには行かなかったのであろう。  

 もし信長公の言いつけで信康を殺したのだとすれば、信長公と忠次公の会見後、2ヶ月もの間、信康を生かしては置けなかったであろう。
武田への内通を疑われたのであるから、いっときも早く処分して信長公に報告せねばならなかった筈である。

【村岡素一郎「史疑徳川家康事跡」の説】

この説は徳川家康影武者説の為、整理しておく(詳細は榛葉英治氏の『史疑 徳川家康』参照)

 *  今川家の人質となっていたのは、実は家康公の嫡男・信康であった(竹千代で同名)(便宜上最終名称で記す)

 *  桶狭間の戦いの折、今川義元軍の先鋒として尾張大高城に兵糧をいれたのは家康。

 *  家康は桶狭間の戦いの後に岡崎城に戻る途中に死亡。
    その直後に瀬良田二郎三郎元信なる男が
替え玉となり岡崎城に入る。
織田信長と清洲同盟を結び徳川家康を名乗る。そして姉川、長篠、小牧・長久手,関が原などを戦い,大阪の陣を経て天下の覇権を握る。


瀬良田二郎三郎元信が家康の身代わりになったとき,その偽装をより完璧なものにするために、信康をも瀬良田の嫡子ということにした。築山殿は遠ざけられてはいたが、瀬良田が家康の名を詐称し、岡崎城を簒奪した秘密を知っている。成長した信康は,母からその秘密を聞いていただろう。

瀬良田にとっては、築山殿と信康は危険極まりない存在である。そこに信長からの処刑要求がきた。瀬良田はこの好機を逃さなかった。後に瀬良田(家康)は信康の死を深く悲しんだかのような逸話がいくつか残されているが、出来すぎた話が多い。演技の匂いがする。

 戦国期の主従関係と江戸期のそれとはまったく違う。戦国期には、家臣に滅私奉公の観念は乏しい。主君が頼むに足りないと思えば、より実力のある主君に鞍替えした。主君としての器量があり、己を認めてくれる武将に従う。それが戦国における主従関係の論理なのだ。忠次公等の武将は信康よりも瀬良田元信(家康)に主君としての器量を認め,瀬良田元信を選択した。

【このほかの説】

*信長公が自分の嫡子・信忠より優れた資質を持つ信康に、将来の不安をかぎとり,自刃を要求したという説。

*忠次公が信康の侍女を妾にし,信康から憎まれたため,逆恨みして信康を罪に落とし込んだという説。

 家康公にまつわる謎のうち最大のものは、嫡男・信康と正妻・築山殿の処刑事件であると言われている。酒井家が鶴岡に来られたのは元和8年(1622)であり、「復鎮御霊社」を建てられたのが何年の事かははっきりしないが,約半世紀後のことである。その事だけでも謎の大きさを感じる。 貴方は、忠次公が全てを知っておられた謎の真実は何だとおもいますか?

上記した以外の歴史的事実

*事件のあった年の4月、秀忠(3男)が誕生している。家康公は次男・秀康の出生に疑問を抱き、実子と認めるのを長い間とまどっていた。男子誕生を確認した後に、この事件は起こっている。

*信康の墓は二股城址近くの清滝寺にある。小さな塚を築いてその上に五輪塔を立てた、質素なものである。家康公は改葬すらしていない。信長に対する遠慮があったとも考えられるが、もし本当に涙をのんで自害させたのなら、信長公の死後に手厚く改装することも可能であった筈である。

*築山殿の墓は、浜松市の西来院にあるが、もとは殺害された浜名湖畔の原野に放置されていた。      明治期に築山殿の実家の子孫が西来院に移した。

*事件の火付け役になった五徳は半年、岡崎城にとどまって後に信長公の元に戻っている。一方家康公は、五徳を丁重に取り扱っていて、年に2千石という化粧料を終身与えている。

徳川最大の鍵を握る  酒井忠次公

 池田 宏 昭和34年卒
[6月 4日]

家康公、信康を伴って浜松城より岡崎城にやって来る

 [7月16日]

家康公、忠次公と奥平信昌を安土城に遣わし信長公に駿馬を贈る。信長公、閉室おいて築山殿と信康の事を問い質す。いて築山殿と信康の事を問い質す

[8月 3日]

家康公、岡崎城にやって来て信康を大浜城に移す

[8月 4日

信康,大浜から岡崎にやって来て家康公に許しを請う

[8月 5日]

家康公、西尾城に移る。松平家忠が西尾城を守衛す

[8月 7日]

家康公、岡崎城に入る。松平康忠・榊原康政に岡崎城を。松平家忠・松平家清・鵜殿康定に北端城を守衛さす

[8月 9日]

信康,大浜城から遠州堀江の城へ移される

[8月 10日]

家康公、三河の諸将に信康への内音信をしない旨の起請文を出させる

信康,堀江城より二股城に移される

[8月 12日]

家康公,岡崎から浜松に移る

[8月 29日]

築山殿、浜松の富塚御前谷で殺害される

[9月  2日]

家康公、病に罹る

[9月 15日]

信康、二股城で自刃する

     山王日枝神社(お山王はん)             復鎮霊社
京都と故郷荘内を紡ぐ

 京都・東山の知恩院に詣で、黒門から退出する途中。東大路に出る手前の、華頂高校の山側右に『酒井忠次公墓所』の石碑を眼にする事が出来る。この石碑は昭和13年に酒井家・京都荘内人会・旧荘内藩関係者達の手で忠次公の御廟所である塔頭・先求院の門前に建てられた。

 酒井忠次公は徳川四天王の筆頭。その智謀勇略 右に出る者なしと称され、徳川家康公の補佐に当たられた事はよく知られた所である。


 天正14年(1586)。家康公の入洛に従った折、従四位下左衛門督に叙任され、豊臣秀吉により聚楽第の北・桜井に邸宅と賄い料として近江に千石の地を賜った。16年に家督を嫡子・家次公に譲ると一智と号して、桜井屋敷にて隠居生活に入った。毎日、知恩院に詣でる為に、屋敷から黒門を潜って通われ、その道筋に先求院を生前に建てられていた。慶長元年に70歳で亡くなられ、葬られた墓は知恩院本堂の脇から勢至堂・一心院の前を通り、華頂山の中腹にある総墓地の一番高い所に、一際大きな墓石(先求院殿天譽高月縁心)である。

隣には奥方の碓井姫(光樹院殿光譽宗月九心)、前には次男であられた本多康俊(近江膳所藩藩祖)、榊原家等の墓もあり、あたかも徳川家の謎を現在も語り合いながら眠っておられるように、私には思える。


 話代わって。鶴岡・山王町の日枝神社の境内に、家康公の嫡子・信康を祀る「復鎮御霊社」がある事は,知っておられる方も多いかと思う。
字からすれば「再び信康の御霊を鎮める社」ということで、荘内藩の支藩があった松山町の中山神社にもある。これは忠次公より2代経た忠勝が荘内に入府したときに、祖先・忠次公が信康自刃事件に携わったことに責任を感じ、信康の死を悼んで建てたものといわれている。所謂、天正7年(1579)の『築山殿殺害と信康自刃事件』である。

《 事件の経過 》・・この事件に至る原因については謎も多い
       『築山殿殺害と信康自刃事件』の色々の説 》

 天正18年(1890)、関東に入府した徳川幕府の知行割で、酒井家は下総碓井に3万石を与えられた。譜代の筆頭格にして、この論功行賞は言うまでもなく不当に思われた。
既に引退していた忠次公はあるとき家康公に、わが子家次の将来をお頼み申すと言上した。
「お前でも子供の可愛さは判るか」と、家康公は低くこう呟いたという。
この両件の間には10年以上空いているにもかかわらず、絡めた話が色々言われている。