「石橋」 白獅子  金春晃実
 赤獅子  金春穂高   佐藤俊之  

次は近日の予定です。

関西鶴翔会のホームページの再開、役員有志の方々のご尽力の賜物です。私もそれにちゃっかり乗っかって、「能」について書かせていただくことになりました。2002年以来、7年ぶりです。

私どもの舞台を紹介させていただきながら、能のお話をして参ります。

==能のお話==
     枕慈道  シテ 佐藤俊之

●「恋重荷(こいのおもに)」は世阿弥作の能ですが、長く上演が中断されていたもので、金春流でも、先代宗家の代に復曲されました。白河院の庭仕事をする老人、殊に院の好む菊の手入れに余念がありません。この老人、偶然女御(院の妃)を目にして以来、女御への恋に患います。

それを聞いた白河院の臣下は老人に、用意した荷を持って庭を廻るならばその間、女御の姿を見せようと約束しますが、その荷は重い岩を美しい布で包んだもの。持ち上がるはずもなく、これを恨みながら老人は死んでしまいます。

老人は怨霊となって現れ、女御を責め苦しめますが、自分を弔ってくれるならば恨みを消して女御を守る神となろうと言って消えてゆきます。

偶然に女御を見かけて恋をしてしまう老人。恋心は意志でどうなるものでもなく仕方のないこと、そしてその恋を成就させようとするでもなく苦しんでいただけの老人に罪はありません。

持ち上がるはずのない重荷を持たされて皆に愚弄されたと憤り、悲しみ、怨霊となってしまった老人も理解できます。一方、院の臣下や女御も、恋は身分を超えてわき上がるもの、本人の理性ではどうにもならぬものと理解を示した上で、成就しない恋を得心させるために重荷を持たせた行為も、良かれとしたことです。双方が善人で、思うべきことを思い、為すべきことをなしても、一方は悪霊となり、一
方はそれに苦しめられることになります。

そして一方は祭られながらも祟るかも知れない恐れられる神となり、一方はその神の怪しい視線を常に感じていなければならない捕囚となるのです。人の世の因果とはなんとも割り切れないやりきれないものです。

能「恋重荷」金春穂高 他

   ほかに仕舞、舞囃子、狂言があります

2回の大阪での演能会、その1回目です。

71日(水)大阪金春会 午後6時始 於・大槻能楽堂

●「石橋(しゃっきょう)」特別な曲です。かなり実力をつけた後、特別に師に教えを受けて修練を必要とする曲を「習物(ならいもの)」と言い、またそうした曲を初演することを「披(ひら)く」と言います。

「石橋」では後場、文殊菩薩の乗り物である勇壮な獅子の舞がこれにあたります。まず、強大な力を発揮できる身体、そして発揮された力をしっかり受け止め、崩されない身体を作りこまなければなりません。同時に機敏さと柔軟性、また大地をがっちりとつかむ足も要求されます。

また、文殊に従う霊獣としての品性、格調もおろそかにできません。これを忘れてしまえば、単に暴れまわる怪獣になってしまいます。舞手は今ある自分という限界がありますからなかなか理想通りにはいきませんが、少なくとも今の自分とは違う次元のものに自分を作り変えてゆくことを意志しなければならないと思います。

「石橋」というと思いだされるのは、故橋岡久馬師の前場の地謡でした。この能は「唐物」といって中国を舞台にしたものですが、明らかには日本の風景とは違う、中国の景色を謡い上げていました。

良い謡いはたくさんありますが、ここまで異国の景色を感じさせる謡はありませんでした。

また、学生のころに見た観世流の女性能楽師の獅子。一般的に女性は体格をとっても体力をとっても、獅子を舞うのに不利は否めません。あまり期待もせずに観ていたのですが、予想を裏切って気魄溢れる立派な獅子になっていた、この方がどれほど精進されたのかと敬意を抱いたことでした。

●「羽衣(はごろも)」は、日本各地に伝わる羽衣伝説をもとに作られた曲で、能の中で最も多くの人に知られているものかもしれません。天女が地上に舞い降り、水浴するために松の木に脱ぎかけた天の羽衣を、漁師が見つけて持ち帰ろうとします。天女は返してくれるよう頼みますが、それが天の羽衣と知った漁夫はなおさら返すことを拒みます。ここで元となった伝説では天女は仕方なく漁夫と夫婦になり子をもうけますが、能では、あまりに悲しむ天女を哀れに思った漁夫は、天女の舞と引き換えに羽衣を返します。原典の俗気を嫌ったのでしょうか、さっぱりと作り変えて、このあとの天女の舞を見せることに重点を置いています。羽衣を身にまとった天人は、漁夫に舞を見せ、ついには天に帰っていきます。

演じる側にも見せる側にも、初心の曲とされますが、清潔さが命、濁りを出してはいけない難しさがあります。

私が初めて謡の稽古を受けた曲がこの「羽衣」でした。出だしの謡「風早の三保の浦わを漕ぐ舟の、浦人さわぐ波路かな」を、もっと声を出して、もっと強く、もっと気合いを入れて、もっと、もっと、といやというほど繰り返し謡わされたことを思い出します。同様に「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」というところ、これは大事な謡だから、と念押し。後々、なるほどと納得できたことでした。初心に帰る曲です。

能「羽衣」金春憲和 他

狂言「呼声」善竹忠重 他

能「石橋(連獅子)」橋 忍 他

関西の金春流は、奈良で年4回の定期公演を行っています。今回はその2回目です。

6月21日(日)奈良金春会  午後1時始  於・奈良県新公会堂

12日 午後430分 「南大門の儀」

前日と同じ形で、金春流の「枕慈童」、金剛流の「葵上」が演じられました。

現在南大門跡で行われている薪能も、元々は東金堂、西金堂で行われていました。場が移動した理由として、東西両金堂が薪能の主宰権を争ったため、その打開策として場を南大門に移したとか、鎌倉期に力を増大させてきた武士勢力が主宰権を獲得して場を南大門に移させたとか、色々な説が伝わっています。

 かつて、芸能は神社の祭りや寺院の法会に伴って演じられるものでした。現在の、入場料をとって芸を観てもらうという商業的な芸能のあり方は実は新しいものなのです。それ故、いかに有力な寺社に所属して祭りや法会の際の上演権を得るかということは、芸能者にとって第一に重要なことだったでしょう。今の能楽につながる大和四座は春日興福寺の庇護のもと、巨大な行事、興福寺修二会の薪能や春日若宮おん祭などの舞台で育てられてきたといっても過言ではないと思います。今、能に携わる人間は、ほかの芸能と同様に当然商業的な演能活動に身を委ねざるを得ませんが、伝統芸能と称する限り、こうした人の姿に思いをはせねばならないと思います。

12日 午前11時 「御社上り(みやしろあがり)の儀」

 「御社上り」は春日大社若宮社前で行われます。若宮様は本殿の第3殿と第4殿の神様の間に生まれた若君で、奈良最大の祭「春日若宮おん祭」の御祭神でもあります。御社上りの舞台は、橋掛りを常とは反対側、つまり見所から見て右側に伸ばし、それ故、演者も型通りに演じられない舞台です。
また、「権守(ごんのかみ)」という太夫の次に位置する副座長とでもいうべき役を登場させる、他では見られない形態が見られます。

この日、金春流の「融」が演じられましたが、以前は演目は「猩々」に固定されていたという話を聞いています。そのため、終演後、付祝言として「猩々」の一節を謡うのだそうです。

11日 午後430分 「南大門の儀」                          

 現在、興福寺の南大門は焼失しています。その跡地の芝地を「般若の芝」と称しています。昔はその芝を直に踏んで演じていましたが、今はその上に所作台を敷いて舞台を整えています。

この日は観世流の「葛城」、宝生流の「八島」が演じられました。

去る5月11日、12日両日、興福寺、春日大社に於いて、「薪御能」がとり行われました。

11日 午前11時 「呪師走(しゅしはしり)の儀」

 「呪師(しゅし)」とは、法会の場から魔を払い、結界をつくる役の者です。走り廻り、激しい所作をしたことから「走り」というようです。古え、法呪師(ほずし)という僧職にある者が演じていたものですが、後に芸能者にも演じさせるようになります。猿楽(能楽の古名)の役者が演じた物ものを「呪師猿楽」と呼び、この芸が現在演じられている「翁」につながります。この祈祷芸である呪師猿楽が、歌謡と舞踊を演劇の中に織り込んだ「能」という芸を手に入れて、発展させたものが、現在の「能楽」といってもよいでしょう。

今日「呪師走の儀」では金春流の「翁」が演じられます。「十二月往来」という特別の演出で、常は一人の翁で演じられるものを、三人の翁が演じます。                            

2009年
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